コロナウィルスの感染を味わってみて(仮)

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昨夜(2月28日)のことです。
僕は急に『病気がきた』という感覚にとりつかれ、心身がどんどん犯されていくのを感じました。

「あ、病気になる」

風邪のひきはじめのような、あの感覚。

いつもなら多少無理もするんですが、なぜか『今回は大事だ』と直感し、娘と遊ぶことも晩御飯をつくることも珍しくしっかりと断り、布団を敷いて寝込むことにしたんです。
なぜだか今回は『きちんと向き合う』ことの必然を感じました。

九州をめぐるツアーより熊本のエコビレッジ サイハテに帰還したばかりということもあり、コロナウィルスの感染もありえます。

個人的には、それ自体はどうでもいいことでした。
普段から健康を意識し、知識も経験も蓄え、独自のメソッドも高め、ストレスフリーに暮らし…事実、10年以上も病院に行ったことも薬を飲んだこともなく、そのように生きてきたのですから。

現状のコロナウィルスの情報からは、感染しても僕には何ら問題もないと確信しているからです。

とはいえ、今回は社会的な側面もあります。
サイハテ村でみても1万坪に30人ほどのコミュニティとはいえ、そこから感染者がでることの対処は『隔離』『追放』『どうでもいい』など集団の空気による判断がおこります。
一緒に暮らす家族をも巻き込んでしまいますし、もちろんサイハテ村やその界隈やそれ以外にまで。

「あぁ、社会では現在、このようは複雑な空気が蔓延しているんだ」と改めて痛感しつつ。

 

熱を測ると38度7分、そこそこの高熱。

僕は布団に潜り、自分の心身の深みに潜りました。

熱による心身のエフェクトを体感しつつ、起きながら眠るような感覚のさなか、夢と現実のはざまを彷徨っていると、、、えもいわれぬ領域に僕はいました。

上空に存在するのは、数名の宇宙人たち。
それらが僕に『コロナウィルスを与えるから、解いてみな』というのです。
優しくも無邪気に見守っているような、『君なら出来るよ』というような。
明確に〝宇宙人〟というビジュアルや、そのような〝言葉〟があったわけでもないのですが、僕はそう受け取りました。

さて、僕はそのようなわけで、夢のなかでコロナウィルスに感染し、発症しました。

僕個人の病気療法として(それ以外の大概もですが)大事にしているのは、〝受け入れる〟ということです。
〝受け入れる〟とすると『ポジティブに変換しなければならない』というような相反するエネルギーをも孕む人がいるので、〝ただ味わう〟といったほうが適切でしょうか。
お腹が痛いならば、その痛さを拒絶するでなく、その感覚をただ味わうのです。

僕は丁寧にコロナウイルスと向き合い、味わっていきました。

『病は気から』『心と体はひとつ』『全ては意識次第』といった大前提より味わうならば、確かにそこに問題はみえてきます。
大概の病気がそうであるように、コロナウイルスにも〝不安〟や〝恐れ〟などのネガティヴなところに紐づく作用がみてとれました。
そうやって自分の心身と向き合い、丁寧に自分の〝不安〟や〝恐れ〟などを探っていきます。
そういった要素は心や魂、脳内思考だけではなく、筋肉やリンパや内蔵などにも『自分でも気付かないレベル』で痕跡を残しているもので、それらを否定も肯定もなくただ味わい受け入れるという所作。
筋肉のコリひとつをとっても、そこにはそうなった意味があります。
その意味に目を背けているからこそ、そのコリは解消されずにそこに存在するわけで、、、
つまりは自分がこれまで目を背けていたことと向き合うということにもなります。
過去のこと…それは意外なほど幼少期にまで遡ることもありますし、キャッチーにいえば前世やカルマのような部分にまで触れる作業です。
自らの傷を開くような、怖さや痛み、辛さを伴う作業…絶望的な気分さえも味わいます。
そこに触れ、気づき、味わっていると、、、案外に問題の簡単さ、ただの思い込み、どうでもよさに気づいたり、乗り越えられる強さを得たり、成長の余白が希望でしかないことに気付かされたりして………そのとき、〝それ〟は解消されるのです。

そのようにして、さて、不安や恐れは無くなっていきましたが、、、それに準じて病気が軽くなったかといえば、さほどでもないのです。

そのときにコロナウイルスの独特な存在感が浮き彫りになってきました。

端的にいえば、それは〝怒り〟

コロナウイルスは〝怒り〟に紐ずく存在。

科学的にいえば、人間の感情周波数帯の〝怒り〟のバイブレーションと共振しているんだと実感しました。

今度は自分の〝怒り〟と向き合う作業のはじまりです。
これまでと同様に、特に〝怒り〟に関しての自分の蓄積と向き合う作業を続けました。
確かに〝怒り〟が解消されるに準じて、症状は軽くなって感じます。

そのたびにコロナウイルスたちは僕にとって問題のない存在となり、むしろ自分の一部として愛せるような存在とすらなり、そのようにして病気の回復を味わっていきました。

しかしどうしても消えないコロナたちがいる…すなわち、どうしても解消できない〝怒り〟が僕の中にあるのです。

「なんだろう?」

丁寧にスキャンしても、なかなかそれは見つかりません。
そうしてやっと見つけた僕の〝怒り〟の根源は、なんと『人類に対しての怒り』だったのです。

僕は子供の頃から現代社会の〝美しくなさ〟に失望し、それをなんとかしたいと様々な活動を続け、エコビレッジ サイハテをつくったりしてきたわけですが…その根底にあるのはまさに『人類に対しての怒り』だったと再認識させられました。

『人類に対しての怒り!』

それをどうしたら解消できるかなんて、僕にはわかりません。

人類に謝らせる? 人類にビンタする? …いやいや違う。
さまざま思案して、やっとみつけたその方法は、、、なんと[パンクロック]でした!

パンクロッカーたちが社会への怒りを音楽に変換し叫ぶように、僕もそうしようと。

人類75億人を集結させ『オマエら目を覚せ!』とパンクロックライブをする? …それは恥ずかしいしなんか違う、全人類に胸を張って納得のパフォーマンスができる気もしない……その前にオーディエンスは全人類である必要もないなと気づき……僕は然るべき人々をそこに集め、ライブを敢行したのです!

『オマエら、目を覚せーーーー!!!』

あぁ、スッキリした。

……こうして僕の最後の〝怒り〟と〝コロナウィルス〟は昇華され……それとともに人類みなとコロナウィルスまでもを愛している自分と幸福感を味わい……

それとともに、熱と症状がなくなっていくのを実感しました。

 

朝、目を覚ますと熱は36度4分。

治った!!!

 

 

…….という、お話です。

夢のお話だし、リアルに熱も下がったし、まぁ、それだけのお話なんですが。

しかしこの擬似体験には何かヒントがあるなと感じ、恥ずかしながら会う人みんなに話してまわっています。
キチガイ扱いされるかとおもいきや、意外に共感してくれる人も多く、「これは多くの人に伝えて欲しい」という意見もチラホラ。
サイハテ村の子供には「そうだよ、病気ってそうじゃん!」なんて普通にいわれたりもしたので、公開してみる気になりました。

 

〝怒り〟とは、『自分の思い通りでないことへの憤り』といえるとおもいます。
そして原因を他者に押しつける感情は、〝被害者〟になりがちです。

それは美しくないし、解決にもならないと感じています。

心も身体も〝健全〟であれば、美しいはず。

人類みんながそうであれば、世界は美しいはず。

 

そして「やっぱブルーハーツヒロトはすげェ!」と再確認できました。

 

いい夢みさせてもらいました。

『知らないことすら知らない』ことを知ろう!

 

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人間は『知らないことは知らないことすら知らない』ということを知ることは、ものすごく大事だとおもうんです。

トンチか禅問答か? みたな語感ですが簡単なことで、例えば…

あなたはアフリカの[ポペソ]のことや、ヨーロッパでホットな[ルイーン]のこと、学会で騒がれている[シュレワール力学]のこと、近頃ワイドショーを賑わせている女優[星崎カルナ]のことを知らないでしょう?(※注1)

あなたはそれらを知らないことすら知らなかったはずです。
それだけのことなんですけど、これが結構盲点だと思うんですよ。

(※注1 : そんなものないのかもしれません、僕も知らないので)

 

宇宙も地球も広大で、人間社会も複雑で、、、この世界は未知なものに溢れています。

僕らは『ポペソ』どころか、『目の前のリンゴが床に落ちる理由』から『お隣のおじさんのポケットに何が入っているか』さえ知らないんですから。
僕らの存在のガイドラインは『科学で証明された』であったりしますが、それにしたってあまりにもあんまり。

〝この世〟について、僕らはどう頑張ってもその0.00000000…000001%も知らないわけです。

世界は、知らないことすら知らないことで溢れてる。
これはどんな偉い学者さんだとしても、赤ちゃんだとしても。

すなわち、自分が『知らないことは知らないことすら知らない』ことを知ることは、無限の可能性を孕む知性の鍵だという気がしてならないのです!

この機会に、心の片隅にとどめておいてはいかがでしょう?

(※この記事を綴った後に知ったのですが、この発想については有名な哲学者ソクラテスも『無知の知』として同じようなことを云っていたそうで、、、古代から伝わる基本哲学だったみたいです。どちらにしても本当にそう思うので、お恥ずかしいながらもこの記事は削除せずに残しておきます)

〝快〟〝不快〟だけ! 極限シンプルのススメ

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極限までかみくだいていくならば、人間の尺度は[快][不快]のふたつだけ、この二極でしかない。
極論とはいえ本当にそうなんですよ、超シンプルです!

生きているからには色々あります、様々な思考・感情・判断・行動が渦巻き…まさに人生いろいろ。
しかし、それらを感覚的に掘り下げていくと……能書きはさておき、そこには[快/不快]の二極とそのせめぎあいしかないことに気づきます。

 [食欲][性欲][睡眠欲]などの生理的欲求に紐付く領域は、[快/不快]で簡単に解釈できるとおもいます。
もっと複雑な『安全欲求』『社会的欲求(帰属欲求)』『尊厳欲求(承認欲求)』『自己実現欲求』なども、それらが満たされるときに[快]を味わい、脅かされる時に[不快]を感じるという点にもピンとくるでしょう。

ポイントは、それら[快/不快]は人それぞれ、その時々でちがうということ。

『美味しい』は[快]、しかし満腹になったらそれ以上食べること自体が[不快]になっていくように…

『辛い』が[快]な人『甘い』が[快]な人、『赤』が[快]な人『青』が[快]な人…

『痛み』は[不快]かといえば、そこに[快]を見出すSMマゾ気質な人もいるように…

『努力』に[快]を見出す人もいれば、その大変さが[不快]な人もいて…

『目立つ』のが[快]な人もいれば、『恥ずかしい』のが[不快]な人もいる…さらに『恥ずかしい』に[快]を見出す変態もいたりと。

 

[快/不快]の尺度は人それぞれ、その時その場で様々。
それぞれに[快]を…変化する幸せを求め続けているだけとすれば、こんなにも千差万別で複雑…かつ人類共通、シンプルで楽な尺度はないじゃないですか。
そこに人間社会の柵があいまり、自分を見失わせ世界を混乱させている気がします。

 

 

だからこそ、複雑に絡み合う[快/不快]のせめぎあいを見極めていくのは大事ことだとおもいます。

人は繊細さで溢れている[快/不快]の領域を言葉にくくってしまいがちなんですよね。
例えば人生には『音楽が好きだからバンドを組んで、有名になり、大金持ちになりたい。そのためにはギターを買わなければいけないので、なるべく楽で高収入なバイトを探そう』みたいなことがひっきりなしじゃないですか? 

それを言葉ではなく[快/不快]だけの尺度にまで落とし込むわけです。

超シンプルかつ超複雑ですよね!?
そこには超膨大な[快/不快]の尺度が入り乱れているのですから。

 

ブルースリーの有名な言葉に『Don’t think! Feel.( 考えるな!感じろ。)』というのがあります。
能書きはいらない…雑念なく、感覚を研ぎ澄ませ、直感を信じることでみえてくる世界があります。

左脳的思考は限定的に働きますが、右脳的思考は拡散感覚的に処理するマルチタスクです。
〝マインドフルネス〟の状態ともいえますが、雑味なく本質を捉えることは大事ですね。

  

「自分の好きなこと、やりたいことがわからない」という悩みはよくききます。

雑念なき[快/不快]の領域で世界をみれば、そんな悩みは存在しません。
「料理が好き」「仕事が好き」「ボランティアが好き」「アーティストになりたい」「お金持ちになりたい」…など色々ありますが、それ自体を好きで目的にする人なんて実はいないですから。

例えば、『本を読むのが好き』という人がいます。

冷静に考えたら、インクが染みた紙をペラペラめくり続け脳に幻想を送るだけの行為なわけです。
それが好きな理由は…知識を増やすのが好きな人、空想の世界に没頭するのが好きな人、『リビングでコーヒーを飲みながらまったり本を読む時間』のような全体性で好きな人もいるし、「インクの匂いが好き」みたいな人もいます。

なぜ「知識を増やす」のが好きなのか?
なぜ「いい大学に入り出世したい」のか?
なぜ「お金持ちになりたい」のか?

お金自体はただの紙切れであり、それ自体が欲しい人なんてまずいませんからね。

 

僕は、人間それぞれのそういった根源的快楽部分を『萌えポイント』と表現しています。

『畑が好き』という人たちにしてみても、開墾に萌える人、種まきに萌える人、収穫に萌える人、研究に萌える人、大自然でのチームワーク部分に萌える人もいれば、商売に萌える人など、様々な萌えポイントがあります。
自他の萌えポイントが浮き彫りになっていると、それぞれの自発的エネルギー部分を無理なく活かせるようになってくるので、チームワークや人生の成功にも繋がっていくとおもいます。

 

『Don’t think! Feel.( 考えるな!感じろ。)』です。

直感的にイマココを生きるのもいいですが、じっくり長期視野で計画を練るときにもそれは重要だとおもいます。
計画だって自分の味わいたい[快]の全体性がみえてきた時に、そこへ向かうプロセスをじっくり考えたらいいじゃないですか。

[快]はその都度変化を続けることはわかっているんですから、その時その場で柔軟に感じ、考えるしかないんです。
そうしたときにこのシンプルな指針は揺るぎないです。
計画だって変幻自在ですし、その[快]を味わうプロセスならば多様にありえるからです。

大変ともいえるし、気楽なもんだともいえますよね…それこそ人生いろいろ。

[快/不快]の二元的かつ多様で縦横無尽な世界…

その領域は、言葉にあてはめるならば〝魂〟が一番近い気がします。

〝魂〟の赴くままに、知識・経験を総動員して判断・行動する。
〝魂〟を信じる…特に日本人はそれを苦手とし、恐れ拒絶する風潮もありますが、僕はこれまでの経験からもそれで何も問題はないと確信しています。

 

〝人間は意識の高い野性であろう〟というのは、言いかえればそういうことなのかもしれません。


〝数字〟の意味と、意味のなさ

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言葉の意味と、意味のなさに続き、〝数字〟について。

こと数字のお話ですからめちゃくちゃシンプルです。

まず、シンプルすぎて見落としがちな数字のカラクリ…それは、

『数字には[0]と[1]と[∞]しかない』

ということ。

 

例えば[8]は『[1]が8個』のことであり、[12369]は『[1]が12369個』のことですよね。
つまり、どんな数字であろうと『[1]がどれだけあるか』でしかないという、それだけのことです。

[0]は「無」や「起点」、[∞(無限)]は「限りない」という概念とすれば…実質的な『数字は[1]しか存在しない』ともいえませんか?

では、[1]の概念とは!? Wikipediaにはこう綴られています。

「無」を意味する 0 に対して、1 は有・存在を示す最原初的な記号なので、物事を測る基準単位、つまり数や順序を数える際の初めである。

 

〝言葉〟と一緒ですよね、人間が『有る』『存在する』としたときに[1]が産まれ、数字が意味を持ちはじめる。
『何を[1]と設定するか?』…そこに数字の真髄がつまっていているということじゃないですか!!!?

 

リンゴが12個あれば『1ダース』…ダンボールに詰めれば『1箱』、コンテナに詰めれば『1トン』などなど…[1]が設定により様々変化することは日常でもよくあることです。

川の水をコップですくえば『コップ1杯の水』…バケツですくえば『バケツ1杯の水』…コップ10杯分をバケツに集めても『バケツ1杯の水』…とはいえ『コップ10杯分の水』とも『1ℓ』などともいえ…その水は『飲み水』や『洗濯の水』となるのかもしれませんが…川にもどせばただ『川』であり……それは絶え間なく海にそそぎ雨となりまた川に巡る、とどのつまりはただの『水』。

それこそ括り方次第でしかないですよね、地球に水は[1つ]しかないという考え方すら可能かもしれません。

むしろ『H2O分子が200兆個』みたいな表現のほうが正確でしょうか?

そうなってくると……宇宙のエネルギーや物質は全て原子や素粒子などの流動的な〝粒〟で構成されているという観点でみれば、『水』も『コップ』も、『リンゴ1個』もあったものではありません。

[1]はどう設定するか次第で変わり…なかなかにあやふやですね。

 

日常使っている数字にも、忘れがちなリアルがあります。

『水は0℃で凍り100℃で沸騰する』かといえば……『〝温度〟という尺度で、水が氷から沸騰するまでを100で割った定義こそが1℃』であったり…

『地球1周は40000km』かといえば……『〝長さ〟という尺度で、地球1周を40000で割った定義こそが1km』であったり…

『1日は24時間』かといえば……『〝時間〟という尺度で、地球が1回転するのを24で割った定義がこそが1時間』であったり…

同じこととはいえ、僕らは物心ついた時からの教育のために逆の発想をしてしまいがちです。
こういった設定の根源を改めてみなおすと、なんだか数字にも野性的なリアリティーが増しますよね。

ちなみに〝重さ〟1kgの設定はなかなか面白いです。
最初は水1ℓの重さを1kgと設定したんですが、水の体積はその都度変わることがわかり…1kgの尺度となる[キログラム原器]という金属の玉をつくり、その世界にひとつだけの玉を厳重に保管しているそうです。人類にとって、その玉のみが正確な1kgを示してくれるという…なんとも野性的な事実。

人間の最先端テクノロジーが[0]と[1]のみ…すなわち〝デジタル〟に行き着いたというのもすごく野性的な現実だとおもいますよ。
[0]と[1]、[ON]と[OFF]、すなわち[ある]と[ない]だけの世界で複雑な計算もこなしますし、様々な情報、美しい画像や音楽も再現できるんです。
なんとも根源的、宇宙的、感覚的なお話ではありませんか。

そもそもデジタルは[二進法]という数字解釈なだけで、僕らが扱う[十進法]とは数の扱い方が違うだけです。
時間は[60分]で[1時間]とする[六十進法]というように、人間は[10]で飽和し繰り上がる数字解釈をベースにモノゴトを考えてきただけなんです。
なんでそうなったかといえば、、、数える指の数が10本だからですよね!? 完全に野性的なお話ではありませんか!!!

  

では、ここでひとつみなさんに問題をだします。

『世界には上り坂と下り坂、どちらが多いでしょうか?』

……答えは、、、、『同じ』ですね。

坂が登りか下りかは、その人の立ち位置によって決まります。
地球を俯瞰でみるならば『上り坂』も『下り坂』も単に『坂』、同じものでしかありません。

数字なんてそんなものじゃないでしょうか?

1時間が短いのか永いのか? 3kmが近いのか遠いのか? 10kgが軽いのか重いのか? 100万円が安いのか高いのか?  …そんなことは誰にもわかりません。
数字に雑味はないけれど、人それぞれの設定や価値観・フィーリングによりその意味は千差万別に変化できます。

『可愛い女の子と1時間一緒にいると、1分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に1分座らせられたら、どんな1時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである。』

これは[相対性理論]を提唱したアインシュタインの言葉です。

実際に時間も距離も重さも、そのような感じということです。

相対性理論的には「速度が早いほうが時間の進みが遅くなる」「強い重力場のほうが時間の進みが遅くなる」ということですが、、、
例えばカーナビなどで使うGPSの衛星は地球の重力圏から遠い軌道を高速で飛んでいるので、そのスピードの早さにより時間が遅く進み、その重力の弱さにより時間が早く進み…そんなわけで地球上の時間と違う流れにあり、GPS衛星の時計はその都度誤差を補正しながら運用されているそうです。

時間すら曖昧なものとすれば…以前ご提案した『この世界は全て自分の幻想(思い込み)』というお話も、よりリアリティーを増してきます。

それにしてもこれから宇宙時代に突入したら人間はどういう意識状態になっていくんでしょうか、楽しみです。
太陽の表面温度は6000度らしいし、ブラックホールの重力は地球の30000倍あるらしいし、光は秒速300000kmらしいし…宇宙スケールともなると数字もぶっ飛びの世界観。
それでも人間は、地球尺度の24時間に1回は寝むくなり、然るべきタイミングでお腹が減るとするならば、、、やはり僕らは胸を張って地球をベースにした野性動物であります。

 

アインシュタインの名言にはこんなものもあります。

『私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である。』

たまには教わった常識やこれまでの経験の縛りにとらわれず、この世界をもっと野性的に眺めてみるのもいいかもしれません。
〝マインドフルネス〟という状態ですね。
理数的にも結構イケるはずなんです、三角関数も円周率πも、紀元前を生きた誰かが直感的に、野性的に発見したものなんですから!
円数率を[π]と教わってしまえばそれですむ話ですが、教わらずとも円と本気で向き合うならば…気づくことは全然可能なはずなんです。

人類の叡智、、、教育による知識の引き継ぎはとても素晴らしい反面、それによって機会を失った〝何か〟もたくさんあるのかもしれませんね。

 

〝言葉〟も〝数字〟も便利で大切なコミュニケーションツールではありますが、絶対ではないあやふやなもの。
野性的な観点で〝数字〟を紐解くならば、人間は[1]を『どう括り、どう解釈し、どう扱うか?』ということしかやってないともいえるんじゃないでしょうか?

地球上に[国]は[196個]ぐらいありますが地球は[1つ]ですし、[75億人]くらいいますが人類は[1つ]ですし、、、とはいえ[日本]も[あなた]もオンリーワンな〝何か〟なのは間違いないですし、、、

『どう括り、どう解釈し、どう扱うのか?』は〝自分次第〟でしかないということを意識してみると、目の前に違った世界が拡がってくるかもしれません。

〝言葉〟の意味と、意味のなさ

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まず、『〝言葉〟に意味などない!』と言い切ってしまいます!

……え? 言葉に意味がないだなんて⁉︎
むしろ[言葉]こそが[意味]そのものでは?

辞書を引いてみましょう。

[言葉]
意味を表すため、口で言ったり字に書いたりしたもの。

 

そうですよね、やはり[言葉]こそが[意味]そのものです。

しかしよく考えてみてください、、、『意味を表すため…』ということは、別のところに本当の意味が存在し、それをカタチにするために[言葉]があてがわれているということですよね?
本当の意味…真意は[言葉]以外のどこかにあるということになりませんか?

 

この世界に溢れる膨大なモノゴト…その[意味]を固め、他者と共有するために産まれた発音や綴り、、、人類の偉大な発明のひとつが[言葉]です。
このコミュニケーション方法の発展により、野性だった人間は徐々に多くの他者と[意味]を摺り合わせ、共有できるようになりました。
共有認識…つまり〝概念〟というものを創造し続けて。

今や[言葉]は人類のコミュニケーションツールのメインストリームです。

聖書にも『はじめに言葉ありき』と綴られているほどに。

では、話をすすめます。

  

さて、今、僕の目の前には《赤い花》があります。
みなさんにもお見せしたいです。

みなさんの頭には《赤い花》がイメージされたでしょうか?
どんな花ですか?
しかし歯がゆいことに、僕の目の前にあるこの花と全く同じ《赤い花》をイメージできた人は一人もいないはずです。
みなさんの想像する《赤い花》はそれぞれカタチも違えば、その赤さも十人十色でしょう。
[花]という単語から連想されるもの、[赤]という単語からイメージされる色味は…それこそ十人十色どころか75億人75億色。

この《赤い花》についてより深くみなさんにお伝えするために、一冊の本として[言葉]をならべることも可能です。

それとも5・7・5の言葉を並べ、俳句でお伝えしたほうがこの情緒までが伝わるでしょうか?

しかしそうしてみたところで、今、僕の目の前にあるこの《赤い花》と全く同じものをみなさんと共有することはできないでしょう。

これが[言葉]による情報伝達です。

僕らはこんな時代になってなお、[言葉]というなかなか不器用な情報伝達手段を主軸にしているんですよね。

 

ある研究機関によれば、[言葉]によって伝わる情報量は本質の7%程度だそうです。
最近はインターネットによる情報伝達も盛んですが、ウェブマーケティングの世界では『文字だけに比べて映像のもつ情報量は5000倍』という計算もなされています。
いわせてもらえば、そういった解釈自体が本当の〝意味〟を履き違えている気もしますが。

どちらにせよ情報伝達量は視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚…五感を添えることによりその精度を格段に上げていくわけです。
これからVR(バーチャルリアリティー)の時代が到来しますので、五感総動員により情報精度は極限まで高まっていくでしょう。

その先、神経回路に直接情報を送り、より精度の高い……

………ちょっと待ってください、僕らはいったい何をやりとりしたいんでしたっけ!?

 一度、[言葉]について話をもどしましょう。

  ∴ 

『はじめに言葉ありき』とは言いますが、もちろん人類だって最初から[言葉]を持っていたわけではありませんよね。

ウホウホ!いっていたのかは知る由もありませんが…現代よりだいぶ〝野性〟的であったろう古代人類は、道具を使いはじめ、服を纏いはじめ、言葉を使いだした頃がありました。
モノゴトに名前をつけ、[言葉]をつくりはじめる…そんな時期を通過してきたことは間違いないんです。

 

つまりこんな感じです、

見上げると輝くあれは……〝タイヨウ?〟…「あるある、わかるわかる、〝タイヨウ〟!」「タイヨウ!」「タイヨウ!」
〝タイヨウ〟を味わってるこの感じ…〝マブシイ?〟…「あるある、わかるわかる、〝マブシイ〟!」「マブシイ!」「マブシイ!」
こんな風に、自分以外の他者と共有しうる〝何か〟の共感から言葉は産まれ育っていったはずですよね。

シンボリックな〝何か〟をみんなで共有するクリエイティブです。

 

時は進み…紀元前400年、ギリシャ
野性人類の文化もある程度成熟し、そんななかで古代ギリシャの知識人たちは『名付けること』…すなわち『概念化』をクリエイティブな愉しみとして、あれこれワイワイやっていたことでしょう。

そこにソクラテスがやってきてこう言いました

『お前たちのやってることは素晴らしいが…気づいてた? それを味わってのは[自分]ってヤツなんだぜっ』

みんなぶっ飛びました、、、目の前のモノゴトをあれこれ言ってはみたものの、ソレを味わっているのが[自分]ということを気にもしていなかったんです。自分という感覚はあったのかもしれませんが、当時は[自分]という概念…共有認識がまだなかった。

いわれてみれば、確かにこの世界を味わっているのは[自分]というヤツじゃないか!

赤ちゃんはまるで野性のように目の前のモノゴトを味わっているだけですが…いつしか自分という存在を認識します。[自意識]の目覚めですね。まさにソレは人類が概念として[自分]を持った瞬間でした。

 

さらにソクラテスは続けました。

『な、あるだろ?[自分]というヤツが。さらにもっともっと[自分]を味わってみなよ…その先にあるだろ?……[魂]といヤツがっ!』

みんなはさらなる[自分]を探ってみました…そして気づいたんです…『ある!』『ある!』…『[魂]…ある!』

[魂]という概念の誕生です!
いまでこそ漫画などでも当たり前な存在、世間話レベルで語られる[魂]ですが、人類はこの時に[魂]を知りました。

名付けブーム(哲学ブーム)の中に投じられた、この新たな世界観。
当時の統治者にしてみれば、人民それぞれが自意識に目覚め[魂]に準じて生きることには不都合があったのかもしれませんね。
あまりにもヤバすぎるというわけで…ソクラテスは処刑されました。

 

次に登場したのがソクラテスの弟子のプラトンです。

プラトンはこう言いました

『師匠は素晴らしかった、たしかに[魂]はある…でも、そんなモノなくね?』

またみんなぶっ飛びました。

『ない!』…『[魂]なんて………ない!』

たしかにそうです、[魂]なんてのは自己認識の極致でしかなく…すなわち『ない!』ことに気付いたんです。

 

あるのにないという…この概念は、せっかくこれまで創造し培ってきた[意味]自体が崩壊してしまう破壊力です。

その発想はなかった、、、あまりにもヤバすぎる!!!

※ 僕はこの現場にいなかったので、この話は妄想でしかないです(歴史の伝承は全てそのようなものともいえますが)

 

この出来事から産まれたのが形而上学という概念・学問です。

簡単にいえば『有るのに無い』モノゴトに対する探求ですね。
[魂]はもちろん、[神][国(国境)][お金]などは強烈に存在してはいれど本質的には集団幻想でしかないので〝形而上学〟的モノゴトです。
それをいったら[会社]や[夫婦]や[責任]などもそうですね、人間たちの集団幻想によって存在しています。
それをいったら[私の家]などといっても…木や石を組み合わせたものが地球にのっている構成体をそう思い込んでいるだけだとすれば、〝形而上学〟的なものといえます。
それをいったら僕の目の前にある《赤い花》だって……どうでしょう? この花は僕の目の前にもみなさんの脳内にも確かに存在してそうではありますが、本質的には原子の粒の集合体を僕がそう認識しているだけにすぎませんし、それこそ《赤い花》の概念を持たない赤ちゃんにとっては他のものとの区別なんてないわけです…実に曖昧な存在です。

 

 

それを言ったら…『本当にある』モノゴトって何なんでしょう?

どれにしても、何にしても…みんなそれぞれが、そう思い感じているだけの〝形而上学〟的なものなんじゃないでしょうか!?

そうなってしまえば、誰でも認識できる本当に存在するモノゴトといえば…この宇宙と、それを構成している粒くらいなものなのかもしれませんが…それすら本当にあるのか見たこともなく……ひとついえるのは、自分が味わっているこの世界のみが本当に存在する世界では!? というような……

とにかく[言葉]により[意味]を定着させないと、この世の全てはそれぞれの感覚認識にすぎず、全てがあやふやなんです。

だから[言葉]に本質的な[意味]はないけれど、[言葉]こそが[意味]そのものとなるんですね。

それがないと、なにもはじまらない。

 

『はじめに言葉ありき』ということは、そういう意味なのかもしれません。

ちなみに聖書の原文では『言葉』の部分は『ロゴス(logos)』と表記されているそうです。

Wikipediaによると、ロゴスの意味は…

言葉、言語、話、真理、真実、理性、 概念、意味、論理、命題、事実、説明、理由、定義、理論、思想、議論、論証、整合、言論、言表、発言、説教、教義、教説、演説、普遍、不変、構造、質問、伝達、文字、文、口、声、ダイモーン、名声、理法(法則)、原因、根拠、秩序、原理、自然、物質、本性、事柄そのもの、人間精神、思考内容、思考能力、知性、分別、弁別、神、熱意、計算、比例、尺度、比率、類比、算定、考慮……

、、、もはや意味不明なほどにシンプル、はじめから答えはでている! といいますか……もはや僕らの〝世界観〟を構築する全てがロゴスであるといっていいほどです。

さて、[言葉]は『本来あやふやでしかないニュアンスを固め伝える』ために無くてはならないものだということがみえてきました。

逆に言えば、[言葉]を使わずともそのニュアンスを伝え高度な情報伝達を成しているケースはたくさんありますよね。

画家はその色やカタチで、音楽家はその響きで、ダンサーはその身のこなしで、言葉よりも本質的な情報を伝えたりします。
ビールの美味さを伝えるならば『このクソ暑い昼下がりに、キンキンに冷えた琥珀色の…』と能書きをたれるよりは、グイっと飲んで『プハ~!』とやったその声と表情をみせる方が絶大だったりするように。

確かに、僕は日本語しかしゃべれませんが、世界中を旅して[言葉]で困ったことはほとんどありません。
身振り手振り、声のトーン、目力によって大概のことは伝わるものです。
むしろ本当に伝えたいことの場合は日本語のままほうが伝わるほどです。そりゃそうですよね、怒りや心配、喜びなどの感情をいちいち他言語に変換して表現するより、ありのままをぶつけた方が伝わるのは当然です。
社会的なこと、ビジネス的なやりとりなどはそれなりに大変かもしれませんが、それでも時間をかけて向き合えばなんとかなるはずです。
本気ならば、目的達成のためにより相手と深く疎通できる方向を模索し続けるだけですからね…同一言語でチームワークを組んでいても意思の疎通は難しいんですから、同じこととはおもいますが。

なんせコミュニケーションにおいて、[言葉]を用いるのが最も楽かつ迅速、行き違いが少ないというのはこの社会が証明しています、間違いないです!

 

どちらにしても[言葉]や[数字]メインでコミュニケーションする現行の社会システム…その限界値は必ずくるとおもいます。

この先、言語は地球統一語になってゆき…その先、未来人は[言葉]は使わなくなっていくのでしょう。

長年連れ添った夫婦に[言葉]はいらないように、シンプルに共有共存意識が当たり前となった人類たちに[言葉]はいらないはずです。

〝資本主義競争時代〟を経て〝世界平和時代〟に達している地球人類たちは、共通認識や知識・経験、意識・感覚が現代人よりも格段にアップデートされているでしょうし、テクノロジーにより感覚の共有はより進んでいることでしょう。
目と目で通じ合うだけのような、意識と意識で通じ合うだけのような…愛しあい、感じあい、共生しあうのが当たり前でしかない地球人類にとっては、わざわざ言語で状況を伝える必要もなく、契約し合う必要もなくなってしまうのかもしれません。

そんな〝意識の高い野性〟を持った人類の時代がくるんじゃないかと、楽しみにしています。

 

『はじめに言葉ありき』というならば…『それをいっちゃあお終いよ!』というようなお話でしたが…
いっそ終わりにして、次に進むのもご一興! みたいな気分です。

 

もちろん『〝言葉〟に意味などない!』だなんて僕に言えるわけもありません。
なんせこのコラム自体が[言葉]によってみなさんのもとに届けられているわけで…

僕の綴ったこの[言葉]たちが、少しでもみなさんに響き、意味を持ってくれたならば嬉しいんですから。

 

…実は本当のことをいえば、僕の目の前に《赤い花》なんてなかったんです。

今回もしも、みなさんの脳内に様々な《赤い花》が咲いたとしたら…少なくとも僕の[言葉]には意味があったということでしょう?

 

〝言葉〟もならば、〝数字〟もそうということで

 

sync-kudo.hatenablog.com

 


 

この世界は全て自分の思い込みでしかない、として

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僕が最も大切にするポイントにして、最もシンプルな世界観。

それは『この世界は全て自分の思い込みでしかない』という現実です。

この世界の全ては自分の味わっている認識の中におきている…自分だけのものという、ファンタジックなリアル。

「この世界が自分だけの認識⁉︎」だなんて、にわかに受け入れがたいかもしれませんが…まさに今、あなたが味わっている〝この世界〟のことですよ!

あなたは今、『自分の五感がキャッチした情報を、自分が認識し判断して』生きています。(※ 第六感などについてはさておき)
その肉体はもちろん、自分が見て、聴き、触り、香り、味わっているその感覚も、それを認識・判断する知識や経験も、自分だけのものということは間違いないですよね。

全く同じ世界を味わっている〝誰か〟は存在しません。
あなたの隣にいる恋人も、隣街のおじさんも、TVに映るあの有名人も、地球の裏側の少年も…まさにこの瞬間、全く違う世界を同時に味わい生きています。

このひとつでしかない世界を、人類75億人が全く違う世界として同時に味わっている………

ならば今、自分の味わうこの世界は、自分だけの認識世界といえますよね!

それだけのお話なんですが。

 

この世界は…自分そのものでしかなく、自分中心で廻っていて、自己中心でしかないし、自分はこの世界の主人公でしかない。
いくら「自分は自己中心ではない!」と叫んだところで…どんなに他人に気を使おうが、それはどうしたって自分の内面から滲み出るものであり、それこそ『優しい自己中心』だってなら素晴らしいじゃないですか。
「自分はこの物語の主人公ではない!」だなんていうのも、どうしたって無理な注文ですよね。

可能性も限界も、その設定は自分だけのもの。

極論とはいえ…自分が死んだら、この世界は消滅するのと同然ですよね!

そんな世界を超越できるとすれば、自分以外の誰かか、自分自身しかないのです!!!

……だから何かといえば、それで世界が変わるわけでもないんですが…それによってあなたが何か変わるなら、世界は大きく変わるということですよね!!

 

馬鹿馬鹿しいんだか真理なのかはさておき…この機会に、そんな風に世界を眺めなおしてみるのもご一興。
ここで提案したいのは『全ては自分の認識でしかない』という再認識を持つことの大事さです。
もちろん『自分以外の世界も膨大にある』という現実もご一緒に。

然るに世界はあまりにも膨大ですが、その実、あまりにもシンプル。

『全ては自分の認識でしかない』ということは、『全て自分次第』ということですからね。

この世界の素晴らしさは、全て自分にかかっているということ!

それって素敵なことだとおもいます。

はじめに

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熊本にある次世代型コミュニティ〝三角エコビレッジ サイハテ〟発起人、マルチアクセスアーティストの工藤シンクです。

 

『生きているうちに〝世界平和〟を味わってみたい』

 

子供の頃からのそんな情熱のもと、サイハテ村を立ち上げ、様々な活動を並行してきました。そうして生きてきたなかで、みなさんと共有したいテーマはもはやシンプル、このひとつ。

 

 〝#人間は意識の高い野性であろう〟 

(※〝あろう〟の部分は『だろう』という断定と『そあろう』というご提案、ふたつのニュアンスを含ませつつ)

 

これは僕が死ぬまで探求していくであろうテーマであり、みなさんと共有していくことでさらなる境地を見出していけることを嬉しくおもいます。

 

そもそも大前提として、人間もこの地球を生きる〝野性動物〟のひとつであるのは間違いありません。

こんな時代になってなお、人間はお腹が減ったら力がでず、毎日ウンコをし、睡眠が必要で、異性に対してムラムラしちゃう!という摂理に、僕は感動すら覚えます。

そういう意味では数万年前となんら変わらず、です。

普通に野性動物ですよね。

 

………しかし、断固として人類は野性動物ではありえないのです!

いきなり大前提から覆しましたが、なぜなら、そもそも人類が創造した『野性』という言葉の〝意味〟自体が『人間的コントロールの範疇外』を定義するものだからです。

むしろ人間は『本来のありさま』と自分たちを切り放したときに、その言葉を創造したのですから。

 

辞書を引いてみましょう。

 

[野性]
自然のままの本能的な性質。洗練されていない粗野な性質。

 

(※[野生]という語句もありますが『動植物が自然に山野で育つこと』という定義なので、[野性]を扱います)

 

[野性]とは産まれもっての性質。

用法などをみていくと、暴力などは『野性的』と表現されています。

 

ところで僕ら人間はそもそも、洗練されていない、野蛮な生き物なのでしょうか? 

ライオン、象、ウサギ、ナマケモノ世界には様々な動物がいますが、その野性は気高く感じられるものもあり、争いをしない種もあります。

 

人間はどうなんでしょうか?

 

ライオンっぽい人、象っぽい人、ウサギっぽい人、ナマケモノっぽい人まさに十人十色、様々なタイプの人間がいます。

僕は『人間ほど多様性に満ちた動物はいない』とおもいます。

 

野生動物たちは、雑味なく、本能のまま生きています。

『飛んで火に入る夏の虫』という言葉もありますが、虫たちは「光にむかう!」という本能のもと、火に飛び込み命を落とすほどそれに忠実です。

そうしてみると、人間ほど自分たちをコントロールできる動物はいません。

本性にあらがえる生き物は。

 

僕はそこにこそ人間の真価を感じますし、そうさせる要素こそが〝意識〟とよばれるものだと考えています。

 

では、〝意識〟とは何なのでしょう?

 

また辞書を引いてみます。

 [意識]
起きている状態にあること(覚醒)。または自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと。

 

「起きている」寝ていないときが意識のある状態、それはそうですね。「覚醒」にはさらなる高次元のニュアンスも感じますね。

「自分の状態、周囲の状況を認識できている」そのような状態が〝意識〟ある状態というのは理解できますが、では『認識できている』とは?

 

またまた辞書を引いてみましょう。

 [認識]
物事をはっきりと見分け、判断すること。そういうふうにして物事を知る、心の働き。また、その知った事柄。

 

「物事をはっきりと見分け、判断する」!!!

シレっといってのけてますが、これはなかなか深そうなお話ですね。

 

人間は物事を五感でキャッチし、頭脳で判断する生き物ですがその感度も知識経験も千差万別ですから「はっきり」具合も「判断」も千差万別です。

視力の高低によって視界の「はっきり」具合が違うのは当然ですし、絶対音感など特殊な感覚と判断力で音を「はっきり」見分ける人もいます。嗅覚の鋭い人、味覚に長けた人もいます。

スポーツなども瞬間の「見分け」「判断」が重要となりますが、天性の才能がある人もいれば努力や練習によってそれを得る人もいます。

 

同じ物事に対してでも、大人や子供、ポジティブな人やネガティブな人、知識・経験、それぞれの環境や常識によって「判断」は大きく違うでしょう。

『コップに半分の水をみてどう感じるか?』はよく用いられる例えですが、それをみて「半分しかない」とおもう人もいれば「十分ある」と判断する人もいる、花に与える人もいれば「美しい」と感じて絵に描く人もいることでしょう……同じ人としても、その時々の状況で判断は変わっていきます。

 

まさに〝意識〟はその時々、人それぞれ人間の個性・多様性そのものともいえそうです。 
( ※ 最近は脳だけでなく内臓なども思考・判断を促す大きな要素だと判明しましたし、「第六感」や「魂」なんてのも見過ごせませんが、、、ひとまずそれは置いておくとしても!)

 

[意識が高い][意識が低い]という表現もあります。

それを〝意識〟の定義に照らし合わせるならば『物事をはっきり見分け、判断できる』レベルの高低ということになりますね。

逆に頭でっかちで押し付けがましい、それが鼻につく人たちは『意識高い系』などとよばれて卑下される風潮もありますが

 

どちらにしても『意識を高める』ということは認識を高めること。

『認識を高める』ということは、より高レベルに『物事をはっきり見分け、判断する』ということになりますよね。

 

つまりはより解像度の高い感覚(センス)や、より広範囲な知識・経験があってこそだとおもいます。

その追求はキリがないでしょうし、だからこそ人生は死ぬまで意義深いのではないでしょうか?

 

 

ところで人間は本能のまま、無意識レベルで高い意識であることはありえないのでしょうか?

 

それがありえるとするならそんな人類社会こそが世界平和っぽいぞ!? とは思いませんか?

だからこそ僕は、このテーマを追求し続けています。

 

 

みなさんとこの終わらない旅を続けていけることを楽しみにしています!